シルバー・ブリット

---------------------------------------------------------------------------------

 カラン、とグラスの中で氷が解けて音を立てた。最近売れているというヴァーチャル・ガールの歌うラヴ・ソングが控え目に流れる店内は、青みがかったライティングで水の中に沈んだような雰囲気を醸し出している。

 店にはバーテンダーらしき男性が一人。他に店員の姿はない。そしてカウンター席には二人の客が間に三つ分の席を空けて座っていた。二人ともカウンターに片方の肘をついて、俯きながらグラスを傾けていた。どちらも暗色系の服を身にまとっている。片方の男は全体的に白髪が目立つ灰色の髪をしており、手の皺を見ても若い男ではないことが分かる。もう片方の男は髪を赤ワイン色に染めており、同じ暗色の服でももう一人の年配の男よりはアクセサリーで自分を飾っていた。こちらも年若い、という程ではない。二十代後半から三十代前半くらいだろう。

 二人は黙々とグラスを傾けて、けれど赤ワイン色の髪の若い男の方が、少しだけ酒を飲むペースが速いようだった。グラスに入った氷が溶けきる前に、若い男は琥珀色のウィスキーを飲み干した。そして空のグラスをカウンターに置き、バーテンダーに次の酒を注文しようと軽く手を上げた。しかし男が次の酒を注文する前に、バーテンダーは白い半透明の液体が入ったカクテル・グラスを男の前に差し出した。店内の青い光を受けて、その液体は一瞬だけ銀色に鋭く煌いた。

「あちらの方からです」

 バーテンダーが示したのは勿論、店に二人しかいない客のうちのひとり、白髪頭の男性だった。赤毛の男はバーテンダーから渡されたそのカクテル・グラスの、細い胴を指でつまむと戸惑いなく中身を一口だけ飲んだ。男の喉が上下し、食道を通りすぎた白色の液体は男の喉をじわりと突いて熱くした。

「悪魔祓い、ですか。今どき銀の弾で倒れる悪魔がいますかね」

 男が飲んだのはドライ・ジンとキュンメル、そしてレモン・ジュースをシェークして作るカクテル、シルバー・ブリッドだった。シルバー・ブリッドとは銀の弾丸のことだが、それ故に悪魔祓いという意味も持っている。しかしこんな美味いもので祓える悪魔とはどんな存在だろう。男はしみじみとそう感じながら、爽やかに口に残ったレモンの香りを楽しんだ。

「いないだろうね」

 男の呟きに答えるようにして、白髪頭の男性が苦笑した。そこで初めて二人はお互いの顔を見る。男が見た白髪頭の男性は、その髪ほど年老いた顔をしているわけではなかった。確かに年相応に深く刻まれた皴が顔面にあるものの、肌の色はまだまだ若く、そして何よりも瞳の煌きに力があった。

「では私からも一杯。こちらの方にラスティ・ネイルを」

 ラスティ・ネイルとはさびた釘を意味する。それは同時に古めかしいという意味を持っており、悪魔に銀の弾丸というまさに古めかしい組み合わせに対する揶揄が込められた選択だった。

 バーテンダーは男の注文に応えて、細く長い指をウィスキーのボトルの首に絡ませた。そして人差し指と中指を使ってボトルを一回転させ、右の手の中に収めて左手で蓋を開ける。流れるような仕草で作り上げられたカクテルはコトリとカウンターの上に置かれ、バーテンダーの一押しで磨かれた机の上を滑り、男性の元へと辿り着いた。

「古めかしい、か。確かにこの手は使い古されているのかもしれん」

 ウィスキーとドランビュイのステアであるラスティ・ネイルを素直に飲んだ白髪頭の男性はそう言ってしばらく黙り込んだ。手には赤茶に錆びた色のラスティ・ネイルが入ったロック・グラスが握られたままである。男性はしばらくグラスの中を見つめ、氷が解けてグラスに当たる音を聞いて、まるで何かを決心したようにグラスの残りを一気に飲み干した。氷の溶けきっていないラスティ・ネイルは甘口といえどもアルコール度は高い酒だ。それを一気に飲み干し、むせることもないのだから、男性はかなり酒を飲み慣れていた。

「銀の弾丸が効かないのであれば、これはどうかね。君、あれを」

 空になったグラスをバーテンダーに渡すと、男性はどこか秘密めいた笑みを漏らしてそう言った。男性に注文を受けたバーテンダーも、注文の内容にひっそりと微笑んだ。そこで初めて、男は店に一人しかいないバーテンダーの顔をまとも見た。薄暗い店内でも光る横顔。こんな如何わしい裏街では、悪目立ちするくらいの整った、清潔さを感じさせる顔だった。

「どうぞ」

 細い指が青い液体の入ったカクテル・グラスを男の前に置いた。青。ライトの青みがなくともその深い青は海の底のような静謐さを感じさせた。男はその色に魅入られたようにして、カクテル・グラスを持ち上げて目の高さで楽しんだ。

「美しい青ですね。名前はなんというのです?」

 バーテンダーに尋ねたつもりだったのだけれど、彼は表情を変えずにただ頷いた。どうやらまずは一口飲んでから、というつもりだろうか。苦笑して白髪頭の男を見ると、彼もまた無言で小さく首を振った。飲まずして名前を尋ねるというのは無粋だと彼らは言う。

 何か、危険な物を感じる。その青は、あまりに美しすぎる。深海に沈むサファイアのように深い青。男はグラスに口をつけた。この酒を飲んだら、バーテンダーに誘いをかけようと男は思った。青、それはバーテンダーの瞳の色に似ている。それを飲み込む想像をして、男は思わず身が震えるほどの快感を得た。

「Call out your God’s name」

 青い酒が男の喉を通ったその時、深い声がぼそりとカクテルの名前を呟いた。

「何?」

 男は自分の耳を疑った。そして自分の鼻も、次の瞬間には疑うことになる。何故気づかなかったのだろう。その酒には、男の体を瞬時に痺れさせるものが入っていた。アルコールのせいだけでなく喉が焼ける。信じられない思いでバーテンダーを見上げると、彼はカクテル・グラスに残った液体と同じ瞳の色を冷たく男へと向けていた。

 青。

 そうだ、サファイアは聖母を象徴する宝石。

「貴様ら、教会の……」

 焼け付く喉で、男は声を絞り出した。それまで作っていた美しく、誘惑的な深みのある声ではなく、本来のしわがれた何重にも聞こえる醜い声だ。そうして喉を押さえつつ立ち上がった男に対して、バーテンダーをしていた男は腰元から銀色の十字架を取り出した。黒く塗られた木製の珠を銀の鎖で繋いで作られたそのロザリオは、男にとって天敵であるという証。

「確かに銀の弾丸は古くて使えません。けれど、教会もそれが分かっていて古い手を使い続けるほど愚かではないのですよ」

 そう言ってバーテンダーは拳銃を構えた。その拳銃も悪魔達の間で銀十字と忌み嫌われているもの。男に向けたシルバーの銃身の奥で、バーテンダーに扮していた若い神父が深海のような瞳を光らせた。こんな状況だというのにそのうっとりするような美麗さに、男は思わず微笑んだ。相手がこの若い神父一人だけならば、という甘い考えが頭を掠めたが、それを見透かしたかのようにカウンターに座っていた白髪頭の男性がゆっくりと立ち上がった。

「君たち悪魔が人に対抗して進化するなら、我々も是非その競争に負けないような努力が必要でね。弾丸も銀の神秘にすがるのではなく、遺伝子レベルで君達を祓う化学の結晶になったんだ」

 そう言って、無表情な若い神父とは違い、白髪頭の神父は面白そうに苦笑いした。その手には若い神父同様に銀十字が握られている。よく見ると背の高い彼もまた、腰から黒の珠と銀の鎖で作られたロザリオを提げていた。

「黒の聖母騎士団ブラザー・ラウル、神の御名のもとに悪魔祓いの任を遂行します」

 逃げなければ、と男は思った。悪魔祓いの神父二人を相手にできるほどの大物ではないと、自分自身が一番良く分かっていた。銀十字の安全装置を外す事務的な音が耳に入る。ブラザー・ラウルと名乗った美麗な青年は揺るぎない手で引き金に指をかけた。一時前にはボトルの首に回していた、同じ指だった。

「黒の聖母騎士団ブラザー・アンセルム、聖母の御心のもとにそれを承認します」

 こちらは銃口をあさっての方向へ遊ばせたまま、笑いを含んだ口調でそう言って肩をすくめた。避けるのならこの神父の方だ、と咄嗟に男は考えた。店の出口からは遠ざかってしまうけれど、仲間を盾に取れば相手の動きも鈍るはずだ。

 男は地面を蹴った。人には有り得ない驚異的な跳躍でもって、男は店の天井へ向かって身を反転させた。足が天井に付き、男は自分の動きに少しは動揺しているはずである白髪頭の神父を見下ろした。

 けれど動揺したのは反対に男の方だった。天井から逆さまにぶら下がった形の自分の額に、ぴたりと冷たい銃口が押し付けられる。まるで十字架に額を貫かれるような構図だ。

「もう一度言おう。最後に君の神の名前でも呼びたまえ」

 口では慈悲深くそう言ったものの、白髪頭の神父は男に神の名を呼ばせる間もなく引き金を引いた。


 重く鈍った銃声が店内に響き、消えていった。それからしばらく経ってから奥でじっと息を潜めていた店のマスターは若い神父に呼び出されてほっと息をついた。

「終わりました。マスター、ご協力ありがとうございました」

 バーテンダーに扮していた若い神父ラウルはここを訪れた時と同じ真っ黒な僧服に着替えていた。その僧服が通常の教区司祭と違う点は、上腕部につけられた腕章だけ。白地に黒い百合の紋章は、彼が神父でありながら黒の聖母騎士団に所属する悪魔祓い師であることを示している。店から貸し出していたバーテンダーの服は、きちんと畳まれてマスターに手渡された。

「あの……悪魔は?」

 その服を受け取りつつ、マスターは恐る恐る店内を覗き込んで尋ねた。店内には神父が二人だけ。その一方である若い神父は怯えているマスターに向かってにこりと微笑んで返した。

「ご心配なく。跡形もなく消滅しました。しかし今後仲間が立ち寄る可能性もありますから、教会に頼んでしばらく護衛をおきましょう。勿論、マスターにもお客様にもご迷惑はおかけしませんよ」

「あ、ありがとうございます。神父様」

 これこそ聖職者といった落ち着いた微笑みと礼儀正しい態度に、マスターの不安は一気に解消される。そんな二人のやり取りを見ていたのだろうか、小さく聞こえた溜息にマスターの視線はカウンターへと向けられる。そこには腰を後ろ手で叩きながらカウンター席に座る白髪頭の神父の姿があった。

「やれやれ、ラスティ・ネイルとは趣味の悪い奴だった。マスター、ブラック・ルシアンを一杯」

 もう一人の神父アンセルムは元ロシアの軍人だったという話だ。ウィスキーとドランピュイのステアであるラスティ・ネイルよりも、故郷ロシアのウォッカがベースのブラック・ルシアンの方が口に合うのだろう。さらりと酒を注文されて、何の疑問を持つ間もなく、マスターはそれに応えようとして手を動かし始めた。ウォッカとコーヒーリキュールのビルドであるブラック・ルシアンはさほど手間のかかる注文ではなかった。マスターは長年やってきたごく自然な動作として、注文を受けてすぐにカクテルを作り始めた。しかしそれを咎めるように若い声が聞こえて、マスターは思わずカクテルを作る手を止めた。

「ブラザー・アンセルム! 仕事は終わりました! 教会へ戻って報告書を出します」

 見ると若く整った顔立ちをしているラウル神父が、その整った顔を冷ややかな瞳で飾っていた。それは先ほどマスターに見せたうっとりするような微笑とは程遠い怒りさえ感じさせる表情だ。

「ご苦労さん、ブラザー・ラウル」

 若い神父の冷たい怒りには全く頓着しない様子で、アンセルム神父はカウンターに両肘をついた上でひらひらと手を振る。そのどこかつかみ所のない態度に、ラウル神父の怒りはさらに冷ややかさを増した。

「貴公も一緒に帰るんですよ、ブラザー」
「私は疲れた。君と違って若くないのでね。このまま寮へ直帰するから後はよろしく」

 ラウル神父の怒りにそう答えると、アンセルム神父はマスターの作っていたブラック・ルシアンにカウンターから手を伸ばして、マスターが何をする間もなく受け取ってしまう。

「いけません! 報告が完了するまでが仕事です。つまりこれは!」

 ラウル神父はアンセルム神父が口に運ぼうとしたグラスを横から掴んで、彼の手から奪い取る。

「仕事中の飲酒になります。そんなこともってのほかですよ、ブラザー」

 そうしてカウンターに置かれたブラック・ルシアンは果たして回収するべきなのだろうかとマスターが悩んでいる間にも、二人の男の神父らしからぬ低俗な会話は続いていた。

「さっきはラスティ・ネイルを飲んだ」
「あれは仕事に必要だったからです。これは違います」
「はぁ……。君も真面目だね、ブラザー。だが私は違う」

 アンセルム神父はそう言うと、若い神父さえも追いつけない敏捷さでもってカウンターに置かれていたグラスを再び自分の手に収めた。

「知っています」

 ラウル神父はしっかりとグラスを握ったアンセルム神父の手をどうにか捕まえようと手を伸ばすけれど、アンセルム神父の避けようは並ではなかった。素早くラウル神父の手を避けて、なおもグラスの中身は一滴も零さないのだから。

「なら、放っておいてくれ」

 掴み合いになりながらもアンセルム神父が訴える。ラウル神父は諦めることなくグラスを追いかけて、アンセルム神父の訴えを退けた。

「真面目なのでできません」

 確かにそれは真面目な人の行動だ、とマスターは感心してしまった。するとアンセルム神父もそう感じたのか、彼は疲労感のある重い溜息をついた。そして提案するようにブラック・ルシアンの入ったグラスを持ち上げて言った。

「……ではこうしよう。私がこの一杯が飲み終わるまで、君はここに座っていたら良い。飲み終わってから報告に行き、後はお互い気持ちよくベッドの中で神の加護の下、就寝する。どうだね?」

 台詞の最後は疑問符を置いて、ついでにアンセルム神父は持ち上げていたグラスもカウンターに置いた。中には溶けきっていない氷だけが残っている。

「…………そう言っている間にまんまと貴公が一杯飲み終わっているというのはどういうことですか!」

 液体だけ綺麗になくなったグラスを、震える指で差しながらラウル神父はそう叫んだ。もはや彼の怒りはただ流すだけが得策だと悟っているような様子で、アンセルム神父は肩を竦める。

「どういうことも何も、そういうことだよ。マスター、ご馳走様」
「ど、どうも」

 あれほどの扱いをされても、グラスにはひびひとつ入っていなかった。渡されたグラスを、マスターは習慣化している動作で逆さまにして中身の氷を捨てた。

「さて、それでは君の言う通りにしようか、ブラザー」

 手には何も残していない、残しているとすればアルコールの匂いを微かにさせているだけのアンセルム神父は、真面目な同僚へ向かってわざと茶化してそう言った。

「今更よくぬけぬけと……」

 ラウル神父は確かに真面目だったので、アンセルム神父の茶化しを流すことなくそのまま受けてとめて拳を握りしめた。マスターには若い神父の我慢もそろそろ限界だという風に見えた。後はもう爆発するだけだ。

「ではやはり報告は君一人でいいかね?」

 追い討ちをかけるようにしてにやりと笑ったアンセルム神父に、ラウル神父の顔が悔しさに歪んだ。とうとう怒りが臨界点を突破して酷いことになる、マスターはそう思った。けれどラウル神父の本気の怒りが見えたのは一瞬のことで、若い神父は強い精神力でもって一度呼吸を整えると、最初に店に入ってきた時と同じ、涼しげな表情に戻ってマスターを見た。何と、白髪頭の神父が若い神父をどうあしらえば良いのか知っているように、若い神父もまた、白髪頭の神父の相手をいつまでも真面目にしていたらいけないことを知っているのだ。

「……マスター、これで失礼します。ご協力感謝いたします」

 丁寧に頭を下げた若い神父は、まさに聖職者の鏡のような雰囲気だった。あまりの変わり身の早さに呆気にとられつつ、マスターは仕事を終えた神父に頭を下げて返した。

「行きますよ、ブラザー・アンセルム」
「はいはい。おいしかったよ、マスター。またそのうち」

 今度は仕事ではない時、それも真面目な連れのいない時に、とアンセルム神父は言い残して先に立ったラウル神父を追いかけていった。店の扉が閉まった後でも若いラウル神父の怒った声と、それをのらりくらりとかわすアンセルム神父の声はしばらく聞こえていた。

 カウンターに残ったのは半端に飲み残されたカクテル・グラス。店の酒では作ることのできない独特の芳香を放つ深い青の液体が微かに残るグラスを洗いながら、自分の店に悪魔が常連客として紛れていたことよりも、あの二人が一緒に悪魔祓いをしていることの方が不思議だとマスターはしみじみと思ったのだった。

100題 Top